3/17(火)サンパチ日報管理者K編@女子挺身隊のお話

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ケアプラン作成

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帰宅

 

【今日の出来事】

モニタリングにて、90歳代になる女性利用者と居住歴の話をしていると、

「ずっと、〇〇市にいた。あ、一回だけ東京に住んだな。

何歳だったかなあ(おそらく15、16歳)、地元からは5人、東京の赤羽の工場に挺身隊として行った。

自分からじゃなく、必ず行かなければならなかった。

工場で作っているのは、戦争に使う部品みたいだったが、何を作ってたかはよく分からなかった。

池袋にも遊びに行ったなあ。

宿舎が、軍事倉庫の隣にあって、アメリカの飛行機が自分たちのすれすれのところを飛んで行った。

夜中にばかり空襲が来て、地下のおっきな防空壕に慌てて入った。

亡くなった人もいた。

調理場が空襲で駄目になって、3日くらい食べるのがない時が一番大変だった。

家に、塩で炒った豆を送ってもらって、みんなで分け合って食べた。

大変でも、そうしなければ、生きてこれなかった。

最後は、空襲で焼き出されて帰ってきた。

今、考えると、こんな歳までよく生きれたもんだあ(笑)

 

私は運命を信じている。

だから、なんでも受け入れて、がんばるしかない。

今は、いい所に入れて、みんないい人ばかりいて、本当によかった。

でも、私はもう90歳過ぎたの?本当?

こんなに生きれるとはね(笑)」

 

出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』
女子挺身隊(じょしていしんたい)とは、大日本帝国が第二次世界大戦中に創設した勤労奉仕団体のひとつで、主に未婚女性によって構成されていた。戦時日本の労働力が逼迫する中で、強制的に職場を配置換えする国家総動員法下の国民総動員体制の補助として行われ、工場などでの勤労労働に従事した。1944年8月の女子挺身勤労令によって12歳〜40歳の内地(日本)の女性が動員された。

 

挺身隊という言葉を、どこかで聞いたことあるなというレベルの私は、iPadで、挺身隊を調べ、写真を見てもらいながら、話を伺いました。

「あーそうだ、そうだ、こんな感じだった。でも、こんなに髪を出してると怒られたもんだ。部品に髪が入るからと。胸に勲章をつけた人たちが厳しかった。」

先月、研修で東京を訪れた際、隙間時間を使って、一人で靖国神社に行ってきました。

英霊と呼ばれる戦没者の手紙や遺品など、胸に突き刺さりました。

まだ読めてませんが、戦没者と遺族の手紙が収められた本も購入しました。

つい、75年程前にこのように言葉にできない程のつらく大変な時代があったこと、今回、本ではなく、実際に体験した方の話を聞くことができたこと、とても貴重な機会でした。

すでに自分の祖母祖父も亡くなり、戦争体験含め、当時の日本のことを伺う機会は皆無でしたが、こういった貴重な戦争体験や昔の暮らしについて伺えるのも、ケアマネジャーという仕事をしているからこそだと思います。

利用者始め今の日本を創ってくださった方々に感謝をしつつ、今の自分の恵まれた生活、仕事や考え方の甘さを振り返り、今後もさらに精進していきたいと思います。

今日も1日お疲れ様でした。